サイキが来ないのはいつものことだ。姿を消す前に、ふざけた台詞を吐くのもいつものことだ。
だから自分は正常だと確かめたくて、口角を上げる。
これは、きっと『笑顔』だ。

「知ってる…また、サイキ先生の新しい遊びが始まるんだって」
「こうやって、いつまでもいつまでも、一人で待ち続けるしかない俺のこと、どこかで見て笑ってるんだって」

声は思った以上に小さくて、掠れていて、ナオは自分で驚いた。いつの日か、自分の断末魔を笑い倒した男の声が記憶の中で響いた。不快だった。
そう、首筋にまとわりつく伸びた毛先くらいには。

「髪もこんなに伸びて…女の子じゃないのに。きっとまた、気が狂う寸前で助けに来て、救世主ぶるんだ」

最後に出て行った時、男は、ナオのことを『すき』だと言った。頭がぼうとして……無性に、腹が立った。
まだ、自分の中にここまで揺り動かせる感情の隙が有ることが、更に苛立ちを煽った。

「…あなたの思い通りには、させない」

誰も聞いていなくとも、ナオはそう、呟いた。何とかして、男を出し抜いてやりたい。

今出来る、男への反抗は……

「さっき、鏡を割ったんだ。ほら、これで手首を切れば、すぐに……」

割れた鏡が、自分の顔を鈍く映していた。
この顔が歪むのを、男は『すき』だと言う。
この声が醜く潰れると、男は楽しそうにする。
こうすると、男は、
こうすると、サイキは、先生、は——

割れた硝子の欠片を拾い集めながら、ナオはサイキのことばかり、思い出していた。
他に、ナオには何も無いからだ。

「……すぐに……。はぁ……はぁっ、は……」

動脈を切れば、きっと死ねるのに。身近な甘い誘惑は、いつだってナオを待っていてくれるのに。

サイキの総てが、ナオを苛立たせ、身体の動きを止める。
尖った欠片を掴んだ指先が、痛い。
痛みを感じるのは生きている証拠だ。

「……ダメだ、まだ死ねない……」

 

 

 

 

 

 

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